「私には関係の無いことだもの。」 その足を止めさせたのは唯一言に秘めた重み。 ひたりと見据えられた視線。 不自然に断ち切られた琴の音が空間に余韻と、違和感を残して消えた。 「どうでも良い事よ。 いっその事、 「!!」 うっすらと、将に酷薄と言うべき微笑を見た瞬間、青年の血がざわついた。 衝動に任せて詰め寄ってしまいたくなるのを、辛うじて掌に爪を立てる事で耐えた。 くい込んだ爪と、恐らくは抉れてしまった皮膚が痛みを通り越してじくじくとした熱を持つのが判る。 これ以上此処には居られなかった、否、居たくないの間違いか。 最早、感情のままに何をしてしまうか判らず、一刻も早く立ち去らねばならないと理性が警告を発している。 青年は立ち去る決心をつけると、踵を返して扉へと向かった。 少女に感情をぶつけて後で後悔するよりは侵入者を下界に帰す方が遥かにマシであった。 「十二年前」 「!?」 ドアノブに手を掛けた所で発せられた言葉は、青年を引き止め、振り返らすのに十分過ぎる程だった。 思わず振り返れば、待っていたかの様に再び瞳が伏せられて言葉が継がれた。 「十二年前まで、ある高貴な血を引く王家が国を治めておりました。 其の時の国王夫妻は慈悲深く良い政治を施しましたので、信頼にあたる賢主として大変国民に愛されておりました。 人々は国王夫妻の治世は末永く続くだろうと謳ったものです。 しかし悲しい事に、善政ほど永くは続かないもの。 他国の革命戦争の騒ぎに乗じた国王の外戚により、呆気無く王座を奪われてしまいました。 国王夫妻は殺され、堅牢無比を誇り、壮美であった城は瓦礫と化してしまいました。」 それは過去の物語……しかし今から然程遠くは無い歴史の一端であった。 琴の音も歴史も澱みなく流れていく。 少女の其の淡々とした口調は何処か楽しんでいる様に聞こえた。 否、実際に楽しんでいるのだろうが。 「さて国王夫妻には三人の皇子達がおりました。 当時、十五歳になられた第一王子、四歳の姫君、生誕されたばかりの赤児の姫君の三人です。 不思議な事にこの皇子達はクーデターの日より、掻き消すかの如く行方が知れなくなりました。 国王の外戚達―――――特に皇子達の父方の伯父(父の兄)は 処刑をする為でしょうか、 四方八方手を尽くして探しましたが見つけることは叶わなかったと言われております。 そしてその日以降、血を継がぬ新しい覇者の治世が始まりました。 しかしそれは至極不安定なもの。 王座を狙う輩や国民の反乱軍などの抵抗により乱れに乱れ、国は曾ての面影を遺さない程荒廃したのでした。」 「水晶。」 歩み寄って詰問する。 自然とまた見下ろすような状況になった。 青年の背丈と相俟って威圧感が増している。 「………残念だわ、氷晶。 あぁ、でも氷晶にとっては喜ばしい事だったのかしらね?」 不意に。 その威圧感を物ともせず、軽い口ぶりで少女が声を発した。 心底残念そうな口調と仕草は場の雰囲気にはそぐわぬものだったが、水晶の少女の 「僕は賢君の死と、民を苦しめる争乱を喜ぶ様な精神は持ち合わせておりません。 ―――――賢君の死を、否、 ―――――――――― 最後の一言は言えずに呑み込んだ。 少女の逆鱗に触れる事を避けただけではない。 決して少なくはない怒りが有る筈なのに、思ったよりかは抑揚の無い感情の篭らぬ声が出た事に秘かに驚いた為でもあった。 「えぇ、そうよ。 嬉しかったわ。 『残念だ』と少女が一番初めに口にした時には既に開かれていた瞳。 それが香の色に染まって燃えているかに見える程、何がしかの強い意志が水晶には有るようだった。 ――――――――――その根底に有るのは、恨みと化してしまった深い悲しみ。 青年はそれに加担した。 だからこそ其の悲しみを知っている。 しかし知っているからこそ、何がこれ程少女の心の琴線に触れたのかが不思議でならなかった。 少し前まで少女の想いが燃ゆる原因となったものすら今はとうに無い。 頭の片隅でつらつらと思い巡らしてしまう。 けれど止め処ない思考は立ち上がった少女の一言で呆気なく霧散してしまった。 ゆるり、と近づいてきた水晶の一言で。 「惚けてないで きっと面白い物が見れるわよ? まぁ、私にとっては忌々しい事この上無いんだけど。」 「……え、」 僅かに顔を顰め、小さな手で『氷晶』の名に相応しい銀の髪を掴み寄せる。 その仕草と言葉で、漸く目前の少女の欲する所が理解出来た。 おずおずと言った形で氷晶は少女の促すまま、頭二つ分は有ろうかと言う差を埋める為に身を屈めた。 「……あ……」 接した額から伝わった光景。 闇の中に決して埋もれる事の無い、鮮やかな紫紺色の髪を持つ若者。 彷徨っている森の、全く"生"を感じさせない沈んだ色の木々に誇示するかの様な萌える翠の瞳だった。 既視感を伴う力強い意志を放つその瞳にただただ見入る。 「…… 「………」 応えは返らない。 何がしかの反応は返ってくるかとは思っていたのだが。 仕方なくゆっくりと額を離して、床に座り未だ侵入者の映像を見る青年を見下ろした。 其処には、眠りにつく人のそれの如く安らかに閉じられた瞼。 少し色付いた頬。 自然と仄かに微笑んだ口元。 融けた雰囲気。 青年は、あの日以来見ることの無かった穏やかさに確かに満たされていた。 ――――――――――音にせずとも、薄い口唇が或る言の葉を象ってしまう程に。 「ねぇ、 驚愕に勢い良く見開かれた蒼い瞳。 だが、すぐに驚きの色は押さえ込まれて、その穏やかささえも隠してしまった。 「いいえ、誰も」 「じゃあ、さっき誰の名前を呼んだの?」 「え」 見間違いだろうなんて言わせない。 愉悦を含んで笑い、そう音にせず口に上らせれば、困惑なのか眉頭が歪んだ。 遅れて口元に手を伸ばす光景に呆れが先に立つ。 ―――――気付いてなかったの、……そう。 けれど、少女は先程確かに見てしまった。 ゆっくりと愛おしげに、青年にとっては神聖で大切な名を呼ぶのを。 もしそれが音となっていたのならば、誰を呼ぶよりも恐らくは――――― 「ねぇ、これでも喜んだのは私だけって言えるの?」 「水晶!!」 「一度くらいは思った事あるんでしょ?」 ――――――――――喜びはしなくても、悲劇に感謝した事があるでしょうよ。 心の隔たりを表すのだろう距離を無理矢理縮めた。 銀糸を握り込んで上向かせればキツイ蒼の眼差しが射ってくる。 「僕は、」 声を出そうとして失敗したのか、悔しげにそれきり口を閉ざした。 否定が出来ない事は、この誠実な青年の性格からすれば肯定に他ならないと言うのに。 視線を落とそうとしても、捉われた髪がそれを阻む。 「さぁ、氷晶? 行きなさいな。 差し込んでくる月光に薄青く仄めく銀を未だ手にしながら、そう命じる。 オレンジが捉えた先には、もう秘かな喜びが現れていた。 表面上は努めて冷静を保とうとしている青年を一瞥し、薄く笑って言い募る。 「貴方の愛し児が『 「……『 「そうよ?」 少女が広い背に手を回し、青年の滑らかな頬に他愛無い口付けを落とした。 そして、自分達以外誰もいない部屋であっても、他聞を憚るかの如く声を潜めて囁いた。 一字一句をこの青年の頭に沁み込ます為に殊更ゆっくりと―――――。 「だって、 「……。」 「時期も良いし、化身となって『 『 声音に陶酔の響きを滲ませて、仄かに微笑う。 青年の銀糸ごと抱き締めた背中が、身体が暖かくて力を抜いて凭れた。 耳を澄ませば血の繞る音がする位静かな部屋で温もりだけを感じて囁き続ける。 「今度は置いてかれない様にしなくちゃね……? ねぇ氷晶、貴方もそう思うでしょう?」 「……えぇ。」 置いてかれる程辛いものは無い、と。 思い出して噛み締めるのは過去の痛み。 沈黙を破った氷晶が、答えながら少女の背を優しく抱き締める。 それは、まるで『仕方の無い事だった』と自身を宥めるかのように見えた。 「置いてかれたくはないわ……もう、これ以上待てないから……」 背に回された感触を、ぼんやりと知覚しながら、少女は誰に言うと無く小さく呟いた。 |